マスターズ陸上競技連盟への登録
陸上競技は、競技場のトラックやフィールドあるいは道路で行われ、走る・跳ぶ・投げる3基本技を中心とする競技の総称です。年齢に関係なく、また、障がいのある方も、多くの競技種目の中から好きなものを選んで楽しむことができます。
マスターズ陸上に出場するには、日本マスターズ陸上競技連合(日本マスターズ)への会員登録が必要です。満18歳以上であれば、陸上競技の経験の有無に関係なく登録できます。居住する都道府県のマスターズ陸上競技連盟に登録することにより、日本マスターズの会員となり、すべての都道府県のマスターズの大会に出場できます。マスターズ陸上は、年齢クラスごとで競技を行い、記録も年齢クラスごとに公認されます。

トラック種目
1.消えた陸上競技種目、女子80mハードル
昨年の東京オリンピックは、まだ記憶に新しいと思いますが、1964年の東京オリンピックを覚えている方は、かなり少数かもしれません。男子陸上競技種目では円谷幸吉がマラソンで銅メダル、一万メートルで6位、君原健二が男子マラソンで8位と好成績を上げています。一方、女子ではやり投げで佐藤弘子が7位、80mハードルで依田郁子が5位でした。依田はメダルも期待されたので、この順位は残念な気持ちもありますが、他のほとんどの選手が予選落ちした中で健闘したといっても良いでしょう。
女子80mハードルは1968年まで行われていましたが、その後は100mハードルが公認種目となり実施されなくなりました。80mハードルは高さ76.2cmのハードルが8台置かれ、ハードル間の距離は8mです。一方、100mハードルでは高さ84.0 cmのハードルが10台、そして、ハードル間の距離は8.5 mになっています。間隔は50 cm長くなっており、実際に走ってみると両種目はずいぶんと違っています。80mハードルは小柄な日本人に向いているので、その後も、公認種目として続いていれば、オリンピックで依田選手以上に活躍する選手が現れたかもしれません。
2.ウサイン・ボルトの男子100mの記録は “すごい”
陸上競技の記録の推移を見ていくと、いろいろと面白いです。男子100m世界記録は、1968年6月20日に初めて10秒をきる9秒9が米国のジム・ハインズにより記録されました。この頃は、手動計時と電動計時が併用されており、この記録は手動によるもので、電動計時では10秒03であり、機械より手動の方が早いタイムが出るというのは面白いと思います。しかし、同年にハインズは電動計時でも9秒95を記録しているので、1968年は男子100mにとって特別の年と言えます。その後、電動計時が普及したことにより、1977年1月からは、国際陸連は電動計時による記録のみを公認するようになりましたが、いずれにしろハインズは、最初に9秒台で走ったアスリートと言えます。
現在の世界記録は2009年、ウサイン・ボルトが記録した9秒58です。ボルトの走りは多数の方がテレビなどで見ており、その強さは強烈な印象を残しましたが、ハインズから40年以上経って、超人的なボルトの出現によって9秒95から9秒58です。第二次世界大戦前(1936年)に、米国のジェシー・オーエンスが手動計時ですが、既に10秒2の記録を樹立していたにもかかわらず9秒台への突入には時間がかかりました。この世界記録の推移を見ていくと、ボルトのタイムはとてつもない大記録と言えるでしょう。

フィールド種目(跳躍)
1.棒高跳びの世界記録の伸びは異常である
男子100mの世界記録の推移と比べ、棒高跳びの記録の伸びは驚異的です。現在の男子棒高跳びの世界記録は、室内記録、屋外ともにスウェーデンのアルマンド・デュプランティスの6m18と6m15です。
戦前は日本の棒高跳びは強く、1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピックと連続してメダルを獲得しています。ベルリンオリンピックでは「友情の分割メダル」と知られる西田修平と大江季雄が4m30で2位、3位となり、金メダルのアール・メドウスの記録は4m35でした。現在の世界記録、あるいは昨年の東京オリンピックの1位の記録(6m02)と比べると、あまりの違いに驚いてしまいます。
陸上競技の種目には、それぞれルールがありますが、ルールの範囲内ならば、記録の向上を目指していろいろ工夫ができます。例えば、棒高跳びでは「ポールの材質・長さ・太さは任意だが、表面は滑らかでなければならない」となっており、使用する棒(ポール)についてはかなり自由度があります。西田修平らは竹のポールを使用していましたが、1960年代になるとグラスファイバー製のグラスポールが登場しました。竹はしなやかですが、曲げていけば、ついには折れてしまいますが、グラスポールは折れることはないので、選手は大きな「しなり」をポールに与え、その反発力を利用して空へと舞い上がることが可能です。
こうして、それまで、高さの限界といわれていた16フィート(4m87)が、1962年にグラスポール使用によってクリアされ、1963年には5m、1985年には鳥人S・ブブカ選手によって6mの高さを超えるまでになりました。用具の素材がこれほど記録に影響を与えた陸上競技種目は、棒高跳びをおいてほかにありません。「竹の棒高跳び」と「グラスファイバーの棒高跳び」のいずれも、走力、筋力が優れ、さらに体操競技のような動きのできる選手が好成績を上げますが、両者は踏切のタイミングなど技術面で相当に異なっており、違う種目と言っても良い位です。
2.走り高跳びの歴史を変えたリチャード・ダグラス・フォスベリーが編み出した背面跳び
走幅跳び、三段跳び、走高跳びといった跳躍競技にも、さまざまなルールがあります。例えば、三段跳びでは「競技者はホップで踏切った同じ足で最初に着地し、ステップ では反対の足で着地し、つづいてジャンプを行う」となっており、この制約下では新しい跳躍法を生み出すことは難しいと思います。跳躍中に上半身(両腕)をシングルアームにするかダブルアームのどちらにするかを迷う位しかないと思います。
走高跳びは棒高跳びと同様にバーを越える競技ですが、「競技者は片足で踏み切らなければならない」というルールがあり、なかなか新しい跳躍法は考えるのは難しいと思っていました。古くから採用され好記録を生み出していた跳躍法は、腹側からバーに飛び込み、体を回転させてバーを越えるベリーロール(お腹を意味する「belly」と、回転を意味する「roll」が合わさった言葉)でした。しかしながら、米国のリチャード・ダグラス・フォスベリーは背面を下側にバーを越え肩や背中で着地する新しい跳躍法「背面跳び」を編み出し、1968年メキシコシティーオリンピックで、背面跳びで金メダル(2.24m)を獲得しました。
現在、ほぼ全てのトップ選手は背面跳びを採用していますが、 背面跳びの登場(1968年)後の1970年代は、ベリーロールを用いる選手と背面跳びを用いる選手が混在し、互いに競っていました。1978年にウラジミール・ヤシュチェンコが出した室内記録2.35m、屋外での記録2.34mが「ベリーロール」の最後の世界記録です。この記録は、1993年にハビエル・ソトマヨルが「背面跳び」で出した現在の世界記録(2.45m)と比べると相当の差があり、背面跳びは跳躍界に革命を起こしたと言えます。一方、この世界記録は30年近く前の記録であり、人間が出せる「限界記録」のような気もしています。

フィールド種目(投てき)
1.ハンマー投げのサークル内での回転数は何回が良いか
一般男子ハンマー投げに使用される鉄球の直径は110mm~130mm、その重量は7.260kg です。この鉄球にワイヤーと握り部分がつき、長さは1.215m となります。選手は握り部分を持ち、腕を伸ばしたままサークル内で体を軸に回転して、鉄球を放り投げます。手を離すと、鉄球は回転をしている円の接線方向に飛び出し、その速度(v)はv=rωとなるので、鉄球の速度を上げて遠くまで飛ばすにはrや角速度(ω)の値を大きくする必要があります。rは回転半径で、鉄球から握りまでの長さと腕の長さを足した値になり、各選手はこの値を変化させることはできないので、鉄球の速度を大きくするにはωを大きくすることが必要です。
ハンマー投げのサークルの内側の直径は、砲丸投と同じで2m135(± 5㎜)なので、この狭いサークル内で回転速度が最大となるよう、選手はサークル内でできるかぎり回転速度を高めるため何回も回転をします。回転数は選手によって異なっており、通常は3回転か4回転で投げます。世界記録ユーリ・セディフは3回転投げ、日本記録保持者の室伏広治は4回転投げです。
以前は3回転投げが主流であったのですが、現在ほとんどのトップ選手は4回転で投げています。4回転を採用して成功した最初の選手は、メキシコシティーオリンピックのハンマー投げで4位に入賞した菅原武男です。外国人選手に比べ小柄で起用な日本人は4回転を武器に好成績を上げましたが、大柄の外国人選手も4回転を取り入れるようになり、今は大多数の日本人選手は苦戦をしているというのが現状です。
砲丸投の投げ方については、ハンマー投げに比べ、時代と共に大きく変化して、記録の向上につながっています。「横向きホップ投法」→「斜め後ろ向きホップ投法」→「後ろ向きグライド投法」→「回転投法」と新しい投法が誕生しました。現在、主流はグライド投法(オブライン投法)と回転投法です。オブライエンが考案したグライド投法は、野球の野茂投手のように投げる方向に向かって背を向けた姿勢をとるので、かなり特殊な投げ方ですが、回転投法では体全体をサークル内で回転させて投げるということで、初めて見たときには衝撃を受けました。動作開始から砲丸を放り投げるまでの、砲丸移動距離がグライド投法の1.44倍になるため、長く加速できるという利点があります。
砲丸投は、野球などのように砲丸を体から離して投げることが禁止されており、首の後ろに固定させてから、勢いをつけて片手で押し出すようにして投げます。したがって、ハンマー投げで述べたrの効果は小さいので、加速できる利点は大きいです。しかしながら、この回転速度を砲丸投げの特徴である「砲丸を押し出す動作」につなげるのは難しく、グライド投法に較べ、明らかに勝っているかの判断は難しく、選手の身長や特性を考慮して投法を決めるのが良いと思います。

マラソン
長距離の記録を劇的に変えた厚底シューズ
男子マラソン日本50傑を見ると、1980年代に2時間7分台から8分台の記録が数多く誕生していることが分かります。宗猛(1983年)、中山竹通(1985)、瀬古利彦(1986)、児玉泰介(1986)、伊藤国光(1986)、谷口浩美(1988)である。このような状況で、マラソンファンは、90年代以降、2時間7分を切れる選手が多数、誕生することを予想し、期待していました。しかしながら、30年近く経過した2017年時点で、2時間7分台の選手を含めても10名程度です。女子マラソンは男子よりもピークが遅れて来ており、2時間20分を切っているのは、歴代1、2、3位の野口みずき(2005)、渋井陽子(2004)、高橋尚子(2001)の3名であり、2000年代の初期である。オリンピックでの順位に関しては、近年、アフリカ勢(ケニヤ、エチオピア)の台頭があり、厳しい状況であることは理解できますが、なぜ、このように記録が伸びないのかは不思議です。
ところが、2018年以降、記録の信じられない伸びが見られました。例えば、昨年の2月の「第76回びわ湖毎日マラソン」で鈴木健吾が2時間04分56秒という素晴らしい日本新記録をマークし、さらに、鈴木健吾を含めて、なんと出場選手の5名が2時間7分を切り日本歴代10位に入ったのです。この時までの、歴代1,2位は2020年の大迫選手2時間5分29秒、2018年の設楽選手の2時間6分11秒でした。記録面の向上はマラソンファンとしては喜ぶべきことなのですが、突如の記録ラッシュに戸惑ってしまいます。
この記録ラッシュには靴底に炭素繊維を内蔵させた厚底シューズの開発が関係しています。厚底にすることで「クッション性」が増し、脚への負担が軽減されました。さらに、「推進力」をつけるため、特殊素材の間に反発力のあるスプーン状のカーボンプレートを挟み込んでおり、前足部で着地すると、このカーボンプレートが屈曲して、元に戻ろうとする力が働き、脚を前へ推し進めるのを可能にします。
厚底シューズが世界的に初登場したのは2016年のリオデジャネイロオリンピックです。昨年の東京オリンピックでも優勝したエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)がナイキの試作品をはいて出走し、金メダルを獲得したのです。その当時は、ほとんどの選手は薄底シューズをはいていたので、厚底シューズに驚きましたが、現在では、ほとんどすべてのマラソンランナーが厚底シューズを履いています。2018年2月の東京マラソンで設楽悠太選手が16年ぶりに日本新記録を出しました。そして、この記録は8カ月後のシカゴマラソンでさらに大迫選手により塗り替えられましたが、いずれも“ナイキの厚底” による記録です。 科学の進歩により生み出された厚底シューズは、陸上競技や選手にとって大事な記録の継続性を損なってしまうので問題です。しかし、科学の進歩を止めることは難しく、かたくなに進歩を拒否するのは無理であり、一定のルールのもと、科学と折り合う必要があります。
世界陸連(WA)は昨年の12月23日の理事会でシューズの規制に関する新ルールを承認しました。この新ルールは2022年1月より施行され、20年、21年の暫定的な規則は2022年12月31日に失効し、2024年11月1日からはトラック種目ならびにフィールド種目で使用できるシューズの底の厚さは20mmまで、そしてロード種目に関しては、今と変わらず40mmとして変更されないことになりました。
